田中利明:柳宗元永州八记考

田中利明:柳宗元永州八记考

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1、十一年の正月に順宗が即位してから、八月四日までの、憲宗即位によら追放されることになる。柳宗元や王叔文達が活躍したのは、貞元二次の憲宗が即位するとともに、柳宗元を含む王叔文党の人々は朝廷かみが窺える。しかし王叔文等の支柱とした順宗が病弱を以て退位し、徳宗時代の弊風を除去し、悪政を断って良政を回復せんとする意気ごようとした諸制度の改革には見るべきものがあり、素乱を極めた先代評価された来た人物であるが、しかし王叔文等が順宗とともに実施しとに依る。韓愈の『順宗実録』をはじめ歴史書の中で、王叔文は悪く 柳宗元がこの地に左遷された原因は、王叔文の党に加わって

2、いたこ着している。四県を治下におく州である。長安から来た柳宗元は冬に州郭零陵に到州は現在の湖南省の南端にあり、唐代では零陵・祠陽.湘原.灌陽のれ、ニカ月後の十一月に更に永州司馬として流されることになる。永 永貞元年(八〇五)九月、柳宗元は礼部員外郎から郡州刺史に度さを目的とする。 本論は永州八記における柳宗元の心的変化の諸様相を分析すること    一、はじめにって永貞と改元されるまでの、わずか八カ月間のことである。全く順柳宗元の永州八記考ことへの憂悶であった。離れぬものは、いかに運命とはいえ自分の行為が正当に評価されない 永州の地に罪人として住む

3、ことになって、柳宗元の脳裏に去来してがごとき」 (同上)日々を送るのである。心細い気持になるばかりで、 「心を擢き骨を傷ましめ、鋒刃を受くる先祖を祭るとき、右顧左晒しても自分の側に誰もいないことを知ってものと呪懇にしてくれる人もない。毎年の春秋に時節のものを供えてとあるごとく、この永州の地には相応しい女性もなく、大罪を犯した 続之重、不絶如縷。 (寄許京兆孟容書) 無与結婚。世亦不肯与罪大者親呪。以是嗣 榮榮孤立、未有子息.荒阪中少士人女子、を果そうとするのだが、 せめて男子を得て先祖の祭礼を絶やさないだけの長子としての責務州に来てから唯一の肉身

4、である母までも失い、全く天涯孤独の身にな長安にいたとき妻を失い、父や二姉をも失った身である上に、この永 とにかく、こうして柳宗元の永州での生活がはじまるのであるが、{示と運命をともにしたわけである。ってしまったのである。田中矛り明1一一人民の利安を図ることに重点があるのであって、これを政治の要諦と 中正信義を旨とし、尭舜孔子の道を興そうとすることは勿論天下のの辺の事情を物語っているように思う。の作品の中に王叔文の政治姿勢を非難する言句の見当らないことがこ志と大きくかけ離れるものではなかったようである。何よりも柳宗元り王叔文の政治的姿勢は尭舜孔子の

5、道を復興したいとする柳宗元の素う。韓愈のように王叔文を悪くいう人もあるが、柳宗元の目で見る限順宗が皇太子のときからのことになるが、王叔文と交際してきたとい来たのである。因に「与薫翰林挽書」には、十年間もーというからとあるように、中正信義を以って己の素志としつつ、共に仕事をして 可力彊、其素如此也。 (寄許京兆孟容書) 唯以中正信義為志、以興尭舜孔子之道、利安元元為務。不知愚随不し柳宗元は少くとも王叔文とともに、と認めたのは、年若きことによる見当違いであったかも知れぬ。しかとある。韓愈の言う通りであれば、柳宗元が王叔文に政治的奇才あり 多計。 王叔

6、文、以碁近、倶待詔翰林。数侍太子(後の順宗)碁。叔文誰諦は、ともに追放の憂き目をみることになる。韓愈の「順宗実録』巻第一で出す制度の改革は、朝廷での有力な政敵に阻まれ、結局順宗の退位と教化していける人物であると考えたからである。しかし王叔文の打ちとあるように、王叔文の才能を奇とし、ともに仁義を立てて、人民を 不自料。 (同上) 宗元早歳、与負罪者親善。始奇其能、謂可以共立仁義、神教化。過 柳宗元が王叔文と親しくなり、王叔文の党に加わったのは、 しかし柳宗元は、尭舜孔子の道を目指し、教化善導を目的とする仕しないといい、運命に順おうとする。与えられた

7、運命であろうが、運命ならば天のなせること、別に恨みは後に残った四五人の者は一向に免罪の恩沢に浴さない。これが自分に死去したものや、早く長安に復帰することを許されたものを除いて、指している。海内皆欣喜として悦んでいるのに、八司馬事件後任地で官に流請された王叔文党の人々のことで、例の八司馬事件の関係者をという。四五子とは、永貞元年の憲宗即位とともに、朝廷より遠地の 乃天也。非云云者所制。余又何恨。 (.本以余宇、下為恨余、今正之、) 而僕与四五子者独論陥如此。宣非命歎。命 今天子興教化、定邪正、海内皆欣欣恰愉、 「与輔翰林挽書」に、         

8、           一宗元は非合理性の支配する暗い運命を感じるのである。      2                        

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